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大切にすること

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2017年は様々な出逢いに満ちていました。
好機とアクシデントが寄せては返す波のように交互に訪れ。
その慌ただしさの中で進路を調整しながら、その瞬間瞬間に精一杯力を注ぐ。
それは一人の力ではどうにもならないことです。
支え合う仲間がいて成立する航海。
個人よりも、チームとしての意識を強く感じた一年でした。


悲しみを分け合い、喜びを分かち合う仲間。
世界で何よりも大切な愛おしき家族。
そして、僕の心を豊かに育んでくれた、最愛の妻。


その存在を奇跡のように感じます。
心から感謝します。



《大切にすること》

僕の生活にはテーマがあります。
それは「大切にすること」。
人や物に、美しく、ていねいに接することです。
まだまだできていないことの方が多いですが、心掛けています。


大切にされることで浄化されていく。
心に傷を抱えていても、また良からぬ思考に染まっていても、誰かに大切にされることで清らかな心に変化していく。
デトックスというか、浄水器のように。
「大切にすること」にはそんな力があるように思います。


確信めいたこの考えには理由があります。
それは、自分自身が「大切にされた」から。


妻と出逢い、彼女から慈しみと愛を受けることで僕の心は浄化されていきました。
また、目に映る景色は色鮮やかに変化していきました。
心模様が、実際的な視界にこれほど影響しているとは知りませんでした。


僕は愛することや、信頼することは循環させなければいけないと思っています。
流れる川が腐らないように、想いもただ一方通行ではなく、呼応するように投げたり受け取ったりしないといけない。


その対話の中で、心の通い合う中で、ふとした所作の中で、理解が深まる瞬間や、愛おしさを感じる瞬間や、敬意を抱く瞬間が訪れます。
それらを見つけていく喜びと、複雑に絡み合う感情で深めていく関係性。
自然の中で暮らすと、季節は四種類だけでなく、 二十四節季と七十二候を肌感覚で味わうように。
ただ「好き」の中にも多様性があることを知ります。
そしてお互いが呼応し、浄化し、さらに高め合っていく。


それは奥さんや家族だけでなく、仲間への想いも同じ。
人や物に、美しく、ていねいにいること。


つまり、大切にすること。



《一番のチームに》

僕は僕自身の想う一番のチームをつくりたいと思っています。
それは仲間とつくるチーム。
家族というチーム。
そして夫婦というチーム。
誰が何と言おうと、「僕たちが一番だね」と言えるチームを。


写真は8年前に宮古島に行った時のもの。
写真を整理していて、ふと懐かしく頬が緩みました。
この屈託なく笑う笑顔を、いつまでも守りたいと思います。


今年の春からはじめたFacebook。
見よう見まねではじめた投稿。
まだ分からないことの方が多いですが、来年もよろしくお願いします。
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世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?〜経営における「アート」と「サイエンス」〜

今や半死半生語と化した「教養」について見つめなおすための心強い一冊。
「教養」は学問や芸術を通して人間性と知性を研鑽するものであったはず。


それが経済成長の波の中で、物質主義に染められ、いつしか「教養」は古臭い(時代おくれの)言葉に変わったような気がします。
言葉遣いや立ち居振る舞い、挨拶の文化。
手紙一つとってみても、教養を大切にしてきた時代と比べれば美しさが軽視されていることは明らかではないでしょうか?


「丁寧」や「美しさ」よりも「儲けたもの勝ち」といった感覚。
「きれい」よりも「早い」「安い」などの効率性を重きにおく思考の変化。
時代を急進させた力のある方々(その時代の最先端の業界)の印象は、実際にどうかということはさておき、押し並べて「美」よりも「進歩」を重要視した印象があります。


いつの時代もスクラップ&ビルド。
「破壊」と「再生」を繰り返すのが世の常ですが、その「破壊」に美しさを感じ得なかった。
そして美しさよりも欲望(野望と言った方が良いのでしょうか)を満たすことにエネルギーを注いだ。
また、欲望の満たし方に「美」を取り入れなかった。
このような背景から、「教養」を野暮ったいものとして認知されるようになったのではないかと思います。
本書の内容に関係なく、あくまで持論です。


そしてようやく本書の登場なのですが、この教養化石時代を憂う者に「よくぞ言ってくれた!」と言わしめる一冊です。
また、彼らの慰みの役割になるだけでなく、その論理的な指摘から、教養に見向きもしなかった者へも「美」の重要性を語りかける力強さがあります(どちらかというとそちらの方が大きい)。


また、「アート=感性」「サイエンス=論理」という構造から、その両方を対比させつつお互いの重要性を説明しています。
昨今のビジネスシーンにおいてサイエンスが重視されてきたのは、意思決定を行う際に誰に対しても説明しやすいから。
確かにアートは論理も時間も空間も超えています。
でも、スティーブ・ジョブズがカリグラフィーを学んだよう、信長や秀吉が千利休を重宝したよう、棋士の羽生善治が美しい一手を見極めるよう、美にはサイエンスを超えたパワフルな力があるのです。
時代の流れが急速な現代、サイエンスのみのシステムに限界が訪れようとしています。
ルールは毎日のように更新されていく。
そこにアート的な感性を、芸術家だけでなくビジネスパーソンにも備えておく必要があるのではないか、というのが著者の考えです(多分)。
だからグローバル企業の幹部はこぞってギャラリーに足を運び、キュレーターの話に耳を傾ける。
つまり、審美眼の磨いているのです。


著者は「サイエンスだけでなく、アートも」また、同じく「アートだけでなくサイエンスも重要」だと語ります。
決してどちらか一方なのではなく、その両方のバランスが組織にとって有効に働くのだと。


アートとサイエンスはどこかで繋がっています。
アートから飛び出した答えは、サイエンスによって答え合わせすることができる。
論理を飛び越えたアートの力。
それは、これからの時代を生きる私たちにとって必要なものなのではないでしょうか?
また、(持論ですが)日本人の曖昧さの中に美を見出す感性、これはとても有利に働くと思います。
おぼろげ、もののあわれ、はっきりしない、つまり説明要らずで良しとしてきた私たち日本人。
欧米の明確さを求める美的感性、または一神教の宗教的文化よりも八百万の神を敬う精神。
あえて意味づけはしないという持って生まれた懐の深さといいましょうか。
それが案外、美を育む上で豊かな土壌になるような気がします。

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アマデウスに視る芸術論~嫉妬と妬みの違いについて~

アマデウスについての考察



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【1】
『アマデウス』という戯曲がある。

宮廷音楽家アントニオ・サリエリが天才音楽家モーツァルトとの出会いにより激しく変化する心を描く。
題名はモーツァルトのミドルネーム、つまりヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトに由来する。
アマデウスには「神に愛される」の意味が込められている。



【2】
十月に松竹座へ舞台を観に行った。
九代目松本幸四郎が演じるサリエリを観るために。

サリエリは幸四郎のはまり役だ。
勧進帳の弁慶、ラマンチャの男のドン・キホーテ、そしてアマデウスのサリエリ。

来年、幸四郎は、『白鸚』の名を襲名する。
つまり九代目松本幸四郎の名でサリエリを演じるのは今回が最後ということだ。

舞台は期待を裏切ることなく、最高の出来栄えだった。



【3】
物語のあらすじをざっくり説明する。



サリエリは宮廷音楽家として、社会的地位も名誉もあった。
オーストリア皇帝に仕えるカペルマイスター(宮廷楽長)という、言わばヨーロッパ楽壇の頂点に立つ人物だ。
またベートーヴェン、シューベルト、リストらを育てた名教育家でもあった。
宮廷においてサリエリは何不自由なく(むしろ優雅に)日々を営んでいた。



そこに彗星のごとく現れたモーツァルト。
この若き音楽家は生命力と才能に溢れていた。
ルーキーとして名をあげた彼は、宮廷にも招かれた。



モーツァルトの才能を誰よりも早く見抜いたのがサリエリだった。
宮廷での演奏を聴いたサリエリはモーツァルトが唯一無二の天才であることに気付く。
それは同じ天才的な音楽家だからこそ分かる嗅覚のようなものであった。
世間はまだモーツァルトの隠された才能に気付いていなかった。
ピアノの巧い音楽家の中の一人くらいにしか認識していなかったのだ。



サリエリは激しい嫉妬に燃えた。
それはモーツァルトの煌びやかな才能に対する怒り。
サリエリはモーツァルトの本質を見抜いた。
まだ十分に花が開きってはいないが、その潜在性は驚異的なものであることに一人だけ気付いていた。
それもまた、才能を与えられた者にしか理解のできない世界だった。



敬虔なキリスト教徒であったサリエリは幼き頃から教会で祈る習慣があった。

「私に音楽の才能を与えてください」と。

「それだけでいい、その他のものは何もいらない。
だから、音楽の才能を捧げてください。」
そのためにサリエリは禁欲生活を送っていた。
酒も飲まなければ、ギャンブルもしない、女性との関りも持たない。
勤勉で熱心に。
音楽に対して誠実に向き合ってきたのであった。



サリエリとは対照的に教養もなく、下品で幼児性丸出しのモーツァルト。
しかし、圧倒的な音楽的才能の持ち主。
その嫉妬からサリエリは「若き天才の芽を摘まねばならぬ」と行動を起こす。

「まだ、誰もモーツァルトの才能に気付かないうちに」



宮廷内、または外で邪魔をするのだが、うまくいかない。
その度にモーツァルトの並外れた才能を見せつけれらるばかり。
芸術家の嫉妬に苛まれ、サリエリは遂に、神へ挑戦状を叩きつける。



あらゆる手段を行使し、モーツァルトを追い詰めてモーツァルトを殺してしまう(正確には病死である)。
神への激しい復讐劇を成功させたサリエリ。
しかし、モーツァルトの死後、彼の人生が華やぐことはなかった。
彼は凡庸な曲しか作ることができなかった。
何を作っても、何を弾いても、色褪せて聴こえた。
それはつまり、モーツァルトの作る楽曲のダイナミズムを誰よりも知っていたから。
色鮮やかで、躍動感があり、抒情的で、繊細な。
それ以上の曲を自分には作ることができないということを誰よりも知っていたから。


サリエリは気付いた。
神に復讐した罰はこのことだったか、と。
自分は神を打ち負かしたのではない。
神に背いたことにより、生きながら地獄を味わうという罰を与えれたのだ
、と。
モーツァルトのオペラとその楽曲は彼の死後、様々な劇場で演奏された。



晩年サリエリは孤独に、密やかに過ごした。
 


【4】
『芸術家の嫉妬』が与える自己矛盾。

サリエリはモーツァルトの才能を絶やしたいと思う反面、その圧倒的才能を感知する感受性のない世間に対して苛立っている。
すばらしい交響曲を書き上げ、指揮をとったモーツァルト。
作品の美しさやそこに秘めた可能性に感動するサリエリ。
しかし、皇帝は欠伸をしながらその演奏を眺めていた。


才能を感知するためには、それ相応の感性が必要になる。
サリエリはモーツァルトを憎しみながらも、その裏側で彼の作品を溺愛していたのだ。


そして、その凄さ(モーツァルトの作品の)を分からない世間にうんざりしていたように思う。



【5】
神への復讐。

サリエリの怒りは

「どうして私はこんなにも真摯に音楽に向き合い、お祈りもしてきたのにモーツァルトの方が才能があるのだ」

というところにある。
下品極まりなく、私生活も淫らな彼にどうして神は微笑んだのだ、と。

「音楽の才能をお与えください」と祈り続けた。
しかし、神が音楽の才能を捧げたのはサリエリではなく、モーツァルトだった。
皮肉にも、神はサリエリにそれを聴き分ける「耳」しか与えなかったのだ。

クリエイターと批評家の壁がそこにはある。
良いものを作ることと、良いものが分かるということには分厚い壁がある。



【6】
嫉妬と妬みの違いについて


嫉妬は主に、自分が所有する何かを奪われる危機感、または恐れに対する言葉。
自分の好きな人が自分ではない別の誰かを好きになるのではないだろうか、など。


妬みは羨ましさから相手を引きずりおろしたいという感情。
自分より後に入社したにも関わらず、重要なポジションを与えられた者に対して抱くような。
いじわるをしたり、相手の不幸を祈ったり、そんな負の感情がある。


嫉妬の感情は女性が多く、妬みの感情は男性に多いらしい。



【7】
良性の妬みと悪性の妬み


妬みには良性と悪性の二種類がある。

人を傷つけたり、引きずりおろしたりするのは悪性の妬み
相手のすごさを客観視して、自分も頑張ろうという心の動きが良性の妬み


試験の成績が良いライバルの悪口を言って評判を落とそうと考えるのが悪性。
ライバルの凄さを認め「あの人にもできたのなら自分にもできるはずだ」「自分も相手に見合うように頑張ろう」とマインドを切り替えるのが良性。



【8】
タイガーウッズの有名なエピソード


2005年に行われたトーナメント。
決勝でライバルと接戦になり、相手がパットを外せばウッズの優勝が決まるという場面。

後のインタビューでウッズは「入れ!」と願ったという。
こんなところで外すような相手は自分のレベルに合わないという気持ちがあった。
つまり、自分と接戦する相手なのだから精神的にも肉体的にも一流であってほしい、という超越した精神がそこにはある。

結果は、ライバルがパットを決めることができず、ウッズの優勝が決まった。



【9】
アンドリュー・カーネギーの墓碑に刻まれた言葉。


アンドリュー・カーネギーといえば、言わずと知れた鉄鋼王の名だ。
彼の墓碑にはこのような言葉が刻まれている。


「自分より賢き者を近づける術知りたる者、ここに眠る。」

Here lies one who knew how to get around him men who were cleverer than himself.


自分よりも能力の高いものを毛嫌いし、敵対視するのか。
それとも相手の能力を求め、仲間として迎え入れるのか。
どちらの方が大きな事業を成し遂げることができるのかは明らかだろう。



【10】
以上、1~9の項目からアマデウスという作品から学び取れるところ。


サリエリが悪性の妬みにかられた芸術家であることは誰の目にも分かる。
そしてそのあまりに人間的な営みの中に文学性と芸術性が潜んでいることも読み取ることができる。
目を伏せたくなるような人間の汚い感情。
行動に移さなくても、自然と心に湧き上がる邪念。
それは普遍的な芸術のテーマと言える。


また、タイガーウッズのように志を高く持つメンタルトレーニングは必要不可欠である。
ウッズの精神性は一日や二日、いや一年や二年で育まれたものではない。
日々の積み重ね、そして自分という人間の持つ可能性を信じることの重要性にある。


アンドリュー・カーネギーのように相手を認めることができれば。
そのためには自分を認めることも必要だろう。
相手を認めてばかりで、自分がそこへアクセスできなければ何の意味もない。
自分という歯車を相手に合わせることで、より大きな効果を見込める。
その発想の転換と、知恵、行動力は不可欠だ。


妬みのエネルギー転化。
一時の感情ではなく、長い目で見た時に自分や組織に成長をもたらせるものの捉え方に宝がある。
喜びだけでなく、怒りや悲しみをエネルギーに変える。
あらゆる感情を行動力や、未来に訪れるであろう布石にすることで、そこに意味が生まれる。
意味が生まれるということは、物語が生まれるということだ。


数々の社会的な成功者にインタビューをしてきた。
彼らの中で共通するのは、「成功までの間に、数多くのピンチや失敗があった」ということだ。


それらは成功の物語に奥行きと感動を与えてくれるスパイスだ。
失敗やピンチは人生をドラマティックにさせる。


少なくとも私がインタビューをした人間には皆、ドラマがあった。
平坦に成功した者などいない。


ここから学ぶことができるのは、失敗したら「しめしめ」という気持ちだ。
オセロの黒石を一息に白に裏返す快感が未来には待っている。


人生の全てには意味があるような気がする。
その意味づけ(物語化)をするのは自分自身の責任だ。
ふと見つめ直してみれば、ただのゴミが、光る石に見えるかもしれない。

北野武のインタビュー本。
2005年、ちょうど監督として座頭市を撮ったり、俳優として血と骨に出演したりしていた頃。
監督としての映画、俳優としての映画を語っているところが興味深い。
また芸人ビートたけしの音楽活動と監督としての音楽効果の姿勢の違いも面白い。
とにかくよく考え、よく動く人である。
想像力なんて大したことないと言いのけ、それよりも学術的な知識の方に重きを置く哲学。
想像力は近い将来の予定を考えるくらいで、学問を掘り下げていった方がアイディアは山のように浮かぶ、と。
それらの発想をコントやテレビショーや映画に昇華させていくのだと。
だから映画は見ないという。
無意識のうちに感化されるから、と。
それよりも学問からのアイディアを映画で表現した方がオリジナルになる、と。
小津安二郎も映画を観ない映画監督だといった。
でも、別の(この本以外の)ところで映画を山のように観た、という話を聞いた気がするのだが。
最初の10分と最後の10分以外早送りで毎日山のように観た、と言っていたような。
まあ、どちらもストーリーとして面白いのでいい。


この人は面白い。
表現の場や方法、アプローチを変えることで己の可動域を少しずつ広げている。
芸事は根っから好きで、タップや歌、落語なんかも未だにする。
それがうまい、うまくない、ということではなく、それら全ての要素が北野武という芸術家の資源となっている。


飽くなき知識欲と向上心は圧巻である。

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地球星の旅人

韓国の詩人リュ・シファ氏の著書。
旅行記のような、またエッセイのような、またポエムのような。
あまりにも美しい言葉の世界。


私も20歳の頃、バックパックを背負いインドへ一人旅に出た。
鮮烈な色彩と、躍動する生命力、美も醜も混沌となったその国の中で、流れに身を任せ、魂を清めた。
豊かで安全な国に生まれ、「あらゆる夢は叶うもの」とし、個人の欲望を人生の羅針盤にしてきた贖罪を洗い落とすように、私にとってインドの地は大きく、清濁合わせ飲む包容力と優しさがあった。
その頃の記憶が蘇った。
ガンジス川に流れる遺体が一度沈み、ゆっくりと反転しながら浮き上がるように。


リュ・シファ氏の言葉は美しく、また、神秘的で、時にユーモラスであった。
決してインドの上辺だけをすくった物語ではない。
また、フォトジェニックなシーンを書き連ねるほどの大衆性はない。
インドという国のエッセンスを抽出するような、またリュ・シファ氏のインドとの対峙の中で煌めく哲学、光景の連なりである。


インドには不思議がある。
土地の持つエネルギー、そこに住む人々の死生観、嘘だらけの商売人、徳の高い精神性。
その不思議を体感するために私たちはインドへ行く。
インドへ行って何かが変わるわけではない。
インドへ行って、その瞬間瞬間に発見する不思議を体感することが目的だ。


「ナマステ!」
私の中の神が貴方の中の神に挨拶をする言葉で感想文を締める。

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