青空の下のブラスバンド

曙南中学校の卒業生が次々とブラスバンドの動画をリツィートしてくれる。
市のPVで演奏してくれた僅かながらのお礼で、練習風景の動画を編集した。
Twitterの中では感想が飛び交う。
そこから察することができるのは、「あの先生、やっぱり慕われていたんだなぁ」ということ。
ブラスバンドのために外部派遣されてきた特別コーチ。
とても厳しく、そして温かく、それ以上に生徒と音楽を愛している。
そんな印象を受けた。

運動場での練習風景は、それはそれは独特なもので。
先生と生徒が言葉にならないものを音楽で対話している。
先生からの難題(技術や体力的な)を 生徒は頭を使って答えるのだが、うまくいかない。
そして行き詰まる。
それでも先生の提案は続く。
生徒達は答え続ける。
ただがむしゃらに、そして誠実に。
何度も、何度も。

『そして、頭で考えてできること以上のものが生まれた』

そのうち、そのかけあいが不思議な空間を作り出す。
気力と身体がトリップした状態というか。
全てのチャンネルが噛み合い出す。
次々と生徒達の潜在的な力が引き出されていく。
その様子に私は目が離せなくなる。
そして生徒達にとっての辛い時間が楽しい音楽の時間へと急速に変貌してゆく。

『潜在能力がみるみる引き出され、成長していくのが感覚として自覚する彼ら』

涙が溢れた。
そのことをばれないように撮影を続けた。
皆、集中していてそんなことに気付く者は誰一人いないのに。
生徒達にとってそれは奇妙でいて貴重な体験で。
あの時期にあの感覚を経験した人間は強い。
音楽だけでなく、何事においても。


あの多感な時期に素晴らしい「師」に出会えることというのは一生の宝だ。
溢れんばかりのエネルギー。
その上手な、正しい使い方を教えてもらうこと。
そして「志」に向かうことの大切さを知ること。
目標を達成する喜びや、自分の可能性に驚いたり、そこで自信を培うことが大切なのだ。

体感することでしか得られない「何か」。
それは物語となって彼らの人生に刻まれるだろう。
雲の隙間からこぼれだす光のように、それはいつでも希望の輝きとして背中を後押しする。
「奇跡」という名の物語を味わった者は強いのだ。
そして、それを共有した仲間はより固い絆で結ばれる。

奇跡を体験すると、自分のことを信じることができる。
「奇跡」にはそのような不思議な力がある。
奇跡は自分を前に進めてくれる。
己を信じることが一番の力であり、最大の能力だ。
自分を信じれない人間が、一体誰のことを信じることができるのか。
家族を守れない人間が、街のこと、引いては国家のことを守ることができるのか。

そして、自分のことを信じさせてくれる人のことを「師」と呼び、「愛する人」として映るのだろう。
どういった意味でも自分はかけがえのない人間なんだと教えてくれる、気付かさせてくれる人。
自分が大切な人間なんだと思わせてくれる人。

『信じさせてくれること』

それは自分より強い者でも、弱い者でも。
例えば、飼っている犬でもいい。
私がいなければこの犬はご飯を食べることができない。
この犬にとって私は必要であり、大切な存在だ。
そのことを自覚させてくれる者こそ、大切にすべき、つまり「愛すべき」者。

曙南中学校のブラスバンドと先生には心から感謝しています。
あのような素晴らしい光景を近くで見させて頂いたことに。
中学生の真剣な眼差し、仲間と共に培った気丈な精神、時折見せる恥じらい、別れの時の屈託のない笑顔。
そこには希望が溢れていました。
きらきらと眩く、美しく。

16.02.21分、選曲&原稿朗読

16.02.21

「はぁ・・・おもんない。
日曜やのに何もやってへんやんけ。
妹も録画しとるしほんまに・・・
何やねん
はぁ・・・おもんないなぁ・・そろそろラジオでもつけとこか。
ん?なんや、これ。
プライマル・・・ラジオ?」

♪Basement Jaxx『Hush Boy』

チェック、ワンツーワンツー。
プライマルラジオ、プライマルラジオ。
あー、皆様、ご陽気はいかがでござんすか?

教養とユーモアをお送りする、プライマルラジオ。
ディレクター・TOMOKO
アシスタント・大根のりお
企画・構成・選曲はメインパーソナリティの嶋津亮太。

はーい、今週もやって参りました。
ファンタスティックで、クレイジーな時間でございます。
踊る準備はよろしゅうございますか?
私、嶋津亮太が、くすんでくすんで、くすみきった日曜午後に魔法をかけてしんぜましょう。

くだらない日常に刺激を。
ガラクタの中に砂金を。
豚に真珠を。猫に小判を。
カップラーメンにホワイトトリュフのスライスを。

残り56分の至高の時間を、皆様にお届けいたします(エレベーターガール風)。
まずは深呼吸、深呼吸。
興奮とリラックスのストライプ。
サウナ・水風呂・サウナ・水風呂・水風呂・サウナ。
交感神経を逆なで。
ついてこい、ついてこい。
地域FMで世界一面白いラジオを聞かせてやるぜ。



♪Patti Page『テネシー・ワルツ』

続いて参りましょう。
背中越しのショット。
風が吹いた、飛ばないように押さえるハット。
荒野に転がるタンブルウィード。
ウエスタンドア、キーコキーコ
両開きの扉を開けば、カウンター。
ゲーリー・クーパーだの、ジョン・フォードだの、クリント・イーストウッドだのよろしく、カウボーイハットを目深に被った粋な親父がこちらを一瞥。
本日のカクテル

『ジャックダニエル』

テネシーウィスキー。
蒸留するまではバーボンと同じ製法。
チャコール・メローイング

サトウカエデの木を角材にして乾燥
燃やして炭に
細かく破砕した炭をメローイング槽に入れる
メローイング槽を一滴一滴、蒸留液が10日ほどかけて通る(濾過)
→スムーズでまろやかな酒質になる
加水後、内側を焦がしたオーク樽で熟成

創業者のジャックダニエルは7歳でウィスキー作りに従事し、1866年、若干16歳でテネシー州リンチバーグに自らの蒸留所を建てます。
テネシー・ティとも形容されるミディアムへヴィの華やかな香りとまろやかな味わいが特徴。



ストーップ。

BGM C.O

何をちんたら、のんびりやっとるんだ。
新しい刺激に興味はないか?
おっと今目をそらした、お前。
お前だよ、お前。
人前では控えめなふりをして、実際には妄想大好き、好奇心の塊のようなお前。
日常の中にうまく紛れ込んでいるように見せかけてはいるが俺の目はだませない。

少しばかり頭をシェークしてもらおうか。
合法的に刺激が欲しいお前。
退屈から抜け出したいお前。
誰よりも欲張りなお前。
そんなお前にはこれをくれてやる。

今持っているショットグラス。
そう、その茶色い液体の入った小さなグラスだよ。
中身をシェーカーの中へ入れろ。
そこにドライジン、そしてペルノー。
氷を入れてシェークだ。

カクテルグラスに注いだか?
よし、ではいくぞ。
それを一気に飲み干せ。
宴の準備だ。

♪Basement Jaxx『Intro』~『Run 4 Cover』

どうだ。
まだ息はしているか?
そうか、頭が揺れ出したか、グラグラきたな、これは刺激が足りないと言っていたお前のためのカクテルだ。
その名も『アースクエイク』。
つまり、地震、だ。
ノスタルジーはもう要らない。
さぁ、なりふり構わず、踊れ、踊れ、踊れ。
わっはっはっはっはっは。



はーいご陽気に。
どんなもんだい?
楽しくなってきたろうな?
わけがわからんようになってきたろうな?
目の前が夢の風景。
きんぴかのきんきらら。
さぁ踊って、疲れて、お風呂に入って、ばななを食べよう。



ペルノーとはもともとアブサン
アブサンとは薬草系のリキュール。
ニガヨモギ・アニス・ウイキョウなどの複数のハーブとスパイスが主成分。

幻覚などの向精神作用があると言われている。
19世紀フランスの芸術家たちによって愛された。
安くてよく効くアルコールのため、多数の中毒者・犯罪者を出した。
詩人ポール・ヴェルレーヌ
画家ロートレック、ヴィンセント・ファン・ゴッホなど



♪辻井伸行『ショパン: 練習曲 #5 変ト長調, Op. 10/5, 『黒鍵』』

星がキラキラ
足の裏にちくちく
メープルシロップの雨は虹を描く
地面に散らばった星屑
ちくちく、いたたたた
何て美しいんだろう
目がチカチカ
光の乱反射
地べたがプラネタリウム
僕は夢の中にいるの?
ここはどこ?わたしはだれ?
月の重力は六分の一
心配事も六分の一
星がきらきら
頭の中にハレー彗星
逆さの宇宙で僕は、バームクーヘンを食べる

16.02.14分、選曲&朗読原稿

16.02.14

拝啓 世界一美しく、世界一卑怯な、貴方へ

あなたの笑顔は太陽を眺めるひまわりのようで、その先に僕がいないと思うと、木枯らしのように淋しく、夜の散歩のような物悲しさを覚えます。
それは舌先にできた口内炎のように静かな主張を繰り返し、できたてのかさぶたを何度も何度も引きはがして、痛みを忘れることを許してはくれません。
僕は今、あなたとの思い出がたくさん詰まった部屋で、一人、手紙を書いています。
(溜息)
正直、せいせいしています。
すっからかんの部屋をぐるりと見まわしては言い知れぬ幸福が私の胸を満たします。
あなたという存在は、僕への恐怖、そのものでした。

ただ、本当に、あなたと会えなくなるなんて、思ってもみませんでした。

♪『外は白い雪の夜』

教養とユーモアをお送りする、プライマルラジオ。
ディレクター・TOMOKO
アシスタント・大根のりお
企画・構成・選曲はメインパーソナリティの嶋津亮太。

この家で一緒に暮らし始めた最初の夜。
僕たちは喧嘩しました。
今でもはっきりと覚えています。

その日生まれて初めてウィスキーを飲みました。
家を飛び出したのはあなたではなく僕の方で。
最初がよくなかったのか、それからは暗黙の了解で、家を飛び出すのはいつも僕の方でした。
宛てもなく彷徨(さまよ)い歩き、目に入った鈍く光る電飾。
扉を開けると薄暗く、見慣れない景色が広がり、僕はバーのカウンターに腰をかけたのでした。
グラスの中で揺れる、ちょろんとした茶色い水は、それだけだと頼りなく。
水たまりの最後のような悲しさに、馬鹿にされたような気になって、一口で飲み下しました。
初めて飲んだウィスキーという名の酒は、冷たいくせに喉を通ると燃えるように熱い、不思議なものでした。
隣の客は「香ばしい」と言って同じものを飲んでいましたが、僕にはそれがやせ我慢にしか聞こえませんでした。

どうしてあなたは行ってしまったのでしょう。
恨んでも、恨んでも、恨み切れません。

あなたは水銀のように美しく。
それだけに禍(わざわい)をもたらします。

僕があなたへ向けて手紙を書けば、セレナーデのように響くでしょう。
どれだけ憎しみを込めたとしても、それは花の蜜のような恋文へと変わります。 

過ぎ去った時間がほろ苦く、少しだけ甘いのは、生きていくためかもしれません。
あなたとは違い、僕にはまだ生きていくことが許されているのかもしれません。

数え切れないほどの出逢いと別れが、朝から晩と、そこかしこで繰り返される中、僕とあなたは出会いました。
それは奇跡です。
そして別れが訪れました。
勝手に行ってしまったあなた。
いくら恨んでも、最後に出てくる言葉は同じでした。
いくら悲しくても、いくら辛くても、いくら悔しくても、いくら不甲斐なくても。
最後に出てくる言葉は「ありがとう」でした。



♪The Ronettes『Do I Love You』

さてさてさて
バレンタインでどっさりチョコをもらった貴方、お母さんからの義理チョコ一つ、自分の部屋でこっそり齧る貴方、今まさに徹夜で作った手作りチョコを前かごに入れて自転車を漕ぎ漕ぎ、愛しのあの人の元へ向かっている貴方。
「愛は宇宙だ」「宇宙は愛だ」「愛は光だ」
と言ったのはかの相対性理論を打ち出した20世紀を代表する天才物理学者、アインシュタイン博士。
時々のドキドキは、更年期障害、又は恋の力。
今日もあなたの恋のひと押しを、豆電球チカチカ、サンキューベリマッチ、エジソン君。

わたくしといふ現象は
ひとつの青い照明です。

Barプライマル開店。
マスター嶋津亮太による音と酒のマリアージュ、本日のカクテル。

『キスインザダーク』

ドライジン20ml
ドライベルモット20ml
チェリーブランデー20ml

主にステア
又はシェークしてカクテルグラスに注ぐ
マティーニにチェリーブランデーが加わった形
チェリーブランデーにより深みが増す
大人のムード漂うロマンティックなカクテル
キスインザダーク「暗闇のキス」



♪『歌劇「魔笛」第2幕 "地獄の復讐がこの胸にたぎる" (夜の女王のアリア)』

愛は宇宙ね、愛は宇宙よ、そう、愛は光。
あぁ、アインシュタイン博士、そうね、そうよ。

胸のドキドキが止まらない。
声を聴くだけで私は満たされる。
全身の毛穴が開き、毛という毛が逆立って。
動脈を流れる血液がぐつぐつ泡立ちながら全身を駆け巡る。
アインシュタイン博士。
これが恋なのかしら。
この爆発的な感情の歓びが、愛なのかしら。

「あ、もしもし。はい谷口です。牛乳を3本、お願いします。」

私は恋をした。
相手は街の牛乳屋さん。

「あ、もしもし。あ、あの谷口です。やっぱり5本でお願いします」

ただ私は彼に会ったことがない。

「あ、谷口です。もしもし。やっぱり10本でお願いします」

相手は受話器の向こう側。
つまり電話でしか話したことがない。

牛乳屋さんの声帯の震え。
セクシーな声。
淑(しと)やかな声。
悠然とした声。
尊大な声。
官能的な、声。
あぁ、抱きしめられたように体が熱くなる。
その響きが、私にこの上ない享楽をもたらす。

だから私の家には毎日のように大量の牛乳瓶が届く。
あぁ、アインシュタイン博士。
この瓶の山も宇宙なのかしら。

「あ、もしもし。谷口です。やっぱり今日は20本お願いします」

あぁ、アインシュタイン博士。アインシュタイン博士。



ending

全ての恋する者へ向けてこの歌を捧げます。

♪つじあやの『君のうた』

枯れかけの観葉植物
香りのしないキッチン
聴こえない寝息
上げっぱなしの便座
笑い声の響かないこの部屋の壁は冷たく

焦げた玉ねぎの匂いも
へたくそな鼻歌さえも
幸福の音色を奏でる一部だったことに気付いた

守るための言葉が
あなたを傷つけることしかできなかった
あなたを失って幾星霜
鈴の音に似た笑い声と美しい言葉が
天使のように部屋中を飛び交っていた日々
彼らの姿はもはやなく
目の前には無機質な景色が、ずんと広がっているだけで

いなくなった君を愛しても仕方がない
いなくなってから愛しはじめた滑稽な僕を、君は笑うだろうか

永遠はなくとも
その一瞬に永遠を感じることが出来たなら
それは恋だ
そう
それは愛だ

茗荷の物語

今日の店での話。
住職のお客様との会話の中で。

旬のものを食べると健康に良いというところから、「今の時期に好きな食べ物は?」という流れに。
「アスパラガスにトマトですね。みずみずしくてたまりません。トマトの食べ比べは大人の遊びです」
「いいね。産地や種類によって味わいは変わるからね。岩塩つけて、ね?」
「住職は旬のものでしたら何がお好きですか?」
「俺はね、茗荷」
「いいですね。豆腐に乗せても、酢漬けにしても」
「食べだしたら止まらなくなる」
「あぁ、茗荷を食べ過ぎると馬鹿になるって、あれ嘘なんですってね。科学的根拠がない」
「茗荷食べると物忘れが酷くなるっていうものね」
「でたらめだと知って、安心してして食べてますよ」
私がそう言うと、住職はビールを一口飲み、奇妙な間を空けてからこう言った。
「マスター、あのね、俺、茗荷の物語も好きなんだ」
「え?何ですか?茗荷の物語?題名だけで興味深い」
「聞く?」
「是非」
「長いよ?」
「私、そういった話が何よりの好物で」
その言葉を聞くと、住職はビアグラスを静かにカウンターに置き、話し出した。

その昔、お釈迦様の弟子で周利槃特(しゅりはんどく)という者がいた。
槃特はお釈迦様の弟子の中でも最も愚かで頭が悪かった。
勉強ができないどころか字も書けない。
だからお釈迦様の教えを聞いても理解できない。
何より言われたことをすぐに忘れてしまう。
一つの句さえも記憶できない。
そんな男だった。
彼は己の無能さに絶望し、お釈迦様の側を離れることを決意する。
しかし、お釈迦様は「自らの愚を知る者は真の知恵者である」と言って彼を留める。
自分が無能だと気付く者は、気付かない者よりも気付く分だけ賢い、と言うのである。
お釈迦様は槃特に今までの修行をやめさせ、ただただ箒を持たせ「垢を流し、塵を除く」と唱えては精舎を掃除させた。
ただ、いくら掃除をしても精舎には埃も積もれば、汚れも増える。
隅から隅まで綺麗にしても、お釈迦様には「まだ駄目だ」と言われる。
それでも、ひたすら「垢を流し、塵を除く」と唱え、箒で掃き続けた。
どれだけ無能な男にも一つのことを続けるという力はあったのだ。
そしてある時、槃特は気付いた。
「人の欲望や雑念も同じ。流せども、掃けどもまた積もる」
その時、槃特は悟った。
仏の教えを理解したのだ。

「すごい話ですね、お釈迦様の言葉、ソクラテスの無知の知のようで」
「うん、何も取り柄はない槃特だが『続ける』ことだけはできた」
「でも、続けるだけでは駄目で、その中でちゃんと気付きを得た槃特はやっぱり偉人ですよ」
「確かにそうだね。そして槃特は思うんだ。また埃が溜まるからと言って諦めてはいけない。掃除をし続けるということ、それそのものが大切なんだ、と」
「はぁ」
「修行とはそのようなものなんだ。決して向上するばかりではない、ということを槃特は教えてくれる」
「素敵なお話ですね」
「話はまだ終わらない。その続きがあってね」
「続きがあるんですか?」
そこで住職は私を見てニヤリと笑った。
「槃特が亡くなった後、墓から妙な植物が生えてきた。それが茗荷なんだ」
「ここで、登場しますか!なるほど、だから茗荷を食べると槃特のように物忘れが・・・」
「そう、そこから物忘れが酷くなるという話が出たという説もある。そして茗荷の字を思い出してご覧」
「茗荷の字?」
「槃特は自分の名前さえも覚えられないほど頭が悪かった。だから常に自分の名前を書いた看板を背負っていたんだ。呼ばれても自分だと分かるようにね」
「物忘れの域を超えてますね。ところで、茗荷の字って」
「気付かない?茗荷という漢字。名を荷なうと書くだろう?己の名を背負って生きた、つまり名を荷ない生きた。それ自身が槃特そのものの姿なんだ」

Barでは不思議なお話が毎日のように届く。

2m先の世界

小さい頃、父に連れられスキー場に行った。
信州だったと思う。
父の後につき、なだらかな斜面をボーゲンで丁寧に滑る。
リフトに乗り、滑り、リフトに乗り、滑り。
2つの影は黙々と儀礼のように続けた。
赤く頬を染めた幼きわたしはそびえる白山を見上げ、その白さと迫力ある大きさに見惚れた。

「行くか?」
わたしはその声に振り返り、視線の先の父を見て黙って頷いた。
それ以上の言葉は交わされることはなく、2人はリフトに乗り込んだ。
まるで純白の雪が言葉を吸い取っているかのように。

父は息子のその山への眼差しに憧憬の光を感じたのかもしれない。
いつもよりも長いリフトの時間。
上に行くほどそれはこじんまりと、そして速度を上げたものになる。
冷たい風を頬に感じながら、血流が全身を駆け巡ってゆくのが分かる。
太陽を雲が遮り、薄く黄色くかんがりと色づいた天が妖しく光る。
胸騒ぎを抑え、リフトバーを握り締めた。
それが不安と期待からくるものであったことに気付いたのは随分と後のことだ。

山の天気は変わりやすい。
上に着くと、霧が立ちこめて2m先が見えないという状態だった。
風も冷たさを増したような気がする。

「このままリフトで降りようか」
漂う不穏な空気を感じ取ってか、父が言った。
わたしはその言葉に首を横に振る。
「行くか」
頷くわたし。

わたしは父を置いてストックを突いて、斜面へ飛び出した。
大きなコブが連綿と続く。
下へ吸い寄せられるような急な斜面。
体重を山側へかけながら、ゆっくりとボーゲンで進む。
目の前は真っ白。
霧で何も見えない。
注意深くしていても、何度も転ぶ。
起き上がろうとしても、そのままバランスを崩す。
どうにか立ち上がり、ボーゲンに戻る。
振り向けど、そこに父の姿はなかった。
正確には霧で何も見えなかった。
2m先までの視界の中を、注意深く、見えるだけの範囲をゆっくり、ゆっくり、滑る。
どれくらい時間がかかっただろう。
わたしはその急斜面の終わりにいた。
達成感よりも緊張からの解放に脱力した。

父はすぐ後に、リフトに乗って降りてきた。
2人でロッジのカフェに入って温かいココアを飲んだ。
窓の外の景色は次第に晴れやかになり、光がこぼれた。
わたしはもう一度、自分の滑ってきた斜面を見上げた。
恐ろしいほどに気高くそびえる山の顔がそこにあった。


『蜜蜂が地球上から消えると人類は絶滅する』
という言葉を聞く。
その理由は分からない。
でも、蜜蜂が消えたところから起こる問題を一つずつ整理していけば、やがて人類の滅亡にまで到達することが分かる。
目の前にある問題や疑問をクリアしていけば、いずれ大きな結果へと飛躍できる。
幼いわたしが霧の立ちこめたあの急斜面を滑りきったように。
判然とした結果ばかりを追い求めるのではなく、時に、2m先の視野の世界を丹念に力を注ぐということに没頭することも必要かもしれない。