どうして人はアガるのか?

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《夢会》で話したこと、話しそびれたこと。

十代の若者の前で話してみた。



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先日、刑部集会場でお話させて頂きました。
それも現役の高校生、大学生の前です。


企画を立ち上げたのは西田遥さん(大学一年生)。
彼女曰く、進学してはみたものの「やりたいことが分からない」「学校が楽しくない」という子がたくさんいるらしく。
そんな子たちに熱い想いを持つ大人と出会う場所をつくり、ディスカッションすることで自分たちの視野を広げたい、その想いから立ち上がりました。

「より良い自分になれるように」

彼女自身も、高校生の時に特殊な体験をして自分との向き合い方が変わったと話してくれました。
遥さんのこともいつか、この《教養のエチュード》で取り上げたいですね。


そして嬉しいことに、遥さんから妻と僕のところにお話がきました。



「若者の前で話してほしい」

遥さんの志とその情熱に胸を打たれ、快く協力させて頂くことに。
話すのは僕。
さて、何を喋ろう。

普段から人前で喋ることには慣れています。
ただ、若者相手にというところがポイント。

テーマは「仕事」
どんな仕事をしているのか?
そのきっかけは?
仕事の楽しさ、または厳しさについて



残酷な子ども。

子どもは正直です。
その正直さが時に残酷で。


「興味のある人の話しか聴かない」


子どもは人をよく見ています。
良いことをたくさん喋ろうが、興味がなければそこで終了。
耳を閉ざし、そして心までも閉ざしてしまいます。
しかもその判断基準の厳しいことwww

肩書なんて関係ないのですね。

「おもしろそうか、おもしろくなさそうか」



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大人の前で喋るのは簡単です。
努力しなくてもみんな聞いてくれますから。
大人になることで「つまらないことでも我慢できる」、もしくは「つまらないものをおもしろくなるように考える」という偉大な力を身につけます。
誰かが話している時は、真面目な顔をして注目してくれますから、少々内容が薄くても問題ありません。


これが、子どもの場合は違います。
興味がなくなると彼らは一瞬で脳内の違う世界へ羽ばたきます。


かなり厳しいんです。
僕には分かります。
だって僕自身ががそうだったから!www


子どもは大人が全員「すばらしい」だなんて思っていません。
全員が「賢い」だなんて思っていません。
大人は子どもの前で「すばらしくあろう」とか「賢くみせよう」とかして本当の自分を偽ります
そういうのって結構子どもにはバレていて。
そんな大人の言葉は彼ら(彼女ら)には響かないんです。

むしろ、ありのままの姿や、ありのままの心を見せた方が若者は信頼してくれるものだと思います。



テーマは《出会いと学び》

作家やラジオDJ、店やイベンターの専門的な話はとりあえず置いておいて。
まずは自分もみんなと同じ、勉強が嫌いな高校生だったんだよっていう話からはじめました。


講話をはじめる時、一番に「勉強好きな人、手を挙げてみて」って言いました。
すると誰も手を挙げなかった。
むしろ「え!嫌い」っていう声まで上がりました。
結果、勉強が好きだったのはその中の一人だけ(しかも恐る恐る)。


これは当然だと思います。
僕自身も学生時代そうだったから。


でもこれは子どもだけが悪いのではなく、半分は学校の先生も悪いんです。

「授業がおもしろくないから」

おもしろい授業をすれば子どもも勉強が好きになります。



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一流の方には皆、恩師の存在がいます。
スポーツの世界でも、芸術の世界でも、学問の世界でも。
魂が震えるほどの喜びを、時に厳しく、その分野の魅力を教えてくれた恩師が。


そんな恩師との出会いは「運」です。
いつ、どのようなタイミングで現れるか分かりません。
それが「お父さん」の人もいれば、「高校の担任」の人もいたり、「クラブチームのコーチ」の人もいます。
そんな人と出会って欲しい。
待っているだけじゃなく、自分から会いに行くことの大切さ。


バーテンダーにもピンからキリがいるように。
学校の先生にも色んな人がいます。
試験に合格すれば誰もが自動車を運転できるのと同じで、免許に関わらず運転が上手い人、下手な人がいます。
それは学校の先生でも同じ。
学問を教えるのが上手い人、下手な人がいるんですよ。

そもそも「勉強ができる人」=「人に教えるのが上手」というのは錯覚です。
皆、それぞれに得意不得意があります。



学問の魅力を伝えることのできる先生、人間性を伸ばしてくれる先生、自分に自信を持たせてくれる先生。
そういったすばらしい先生と出会うのは、子どもにとって「運」しかありません。
義務教育期間中は学校を自分で決めることなんてできないし、クラスの担任を自分で決める事なんてもってのほか。
大人が作った仕組みの中で言われたことをこなしているだけですから。


だから、「勉強が嫌い」というのは、そう言わせる先生にも半分の責任があるのです。



子どものせいにばかりしてはいけない。

授業中話を聞かない子どもを叱るだけじゃなく、学校の先生もおもしろい授業を考えないといけない。
それを怠っていませんか。


それは政治も同じ。
若者が政治に興味がないのは、「今の政治がおもしろくないから」。
若者に少子化のことや税金のことを言っても「いや、知らんやん」というのが本音でしょう。
「っていうか、その現状作ったのってあなたたち大人じゃないの?」とすら思うのではないでしょうか。

「選挙に行け」という大人が、僕には政治に興味を持たせないように仕向けている張本人ではないのかと思うのですね。
現状とその問題点、未来の期待、または不安をいかにカバー(リカバー)できるかっていうのを分かりやすく、そして熱を持って若者の心に届けないといけないのではないでしょうか。
今身近にある政治は権力者の顔色伺いの票取りゲームにしか見えません。


「誰かを知っていること」が重要視される社会に疑問があります。
正直、誰々を知っていることで自分の地位を上げようとするのは変です。
その人の名前で下駄を履かせてもらうのでなく、個人の力を上げないといけないのではないでしょか?
「繋がり」ってそういうことなのでしょうか?



繋がりをどう生かすか。

すばらしい人と出会って欲しい。
そしてそこからたくさんのものを吸収して欲しい。

若者にそう語りました。
待ってるだけでなく、自分から進んで会いにいく。

僕の持論で「頭の良い人は人の話をよく聞く」という考えがあります。
学歴や肩書に関係なく、頭がスマートな方は人の話をよく聞き、自分の頭で考え、判断します。

だから本を読むことを勧めました。
本人に会いに行けなくても(距離の問題や時間の問題、それに既に亡くなっているという問題から)、本ならばその当人の考えと出会えます。
読書を通して、その人の言葉に耳を傾けることができます。

それは知識だけの話ではなく、当人の悩みや葛藤、逆境をいかに乗り越えたかまで書かれています。
その物語たちは自分の中に蓄積され、やがて励みとなります。
環境が人を作る。
人と出会ったり読書を通して、自分の中にすばらしい偉人や物語、その言葉を蓄積していってください。
やがて何にも負けない力強い心が育ちます。


僕は、Facebookなどでしばしば見られる「誰かの知り合いだからどうだ」とかいうくだらない繋がりではなく、自分を成長させてくれる本当の意味での強い繋がりを若者の皆さんに持ってほしいと思います。
僕も「学ぶことのおもしろさ」を伝えていくことができる大人になれるよう日々励みます。



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素敵な会でした。
集まった若者の皆さんは僕が想像していたよりも聡明な方々で。
そして最後まで集中して僕の話に耳を傾けてくれました。

話が横道にそれたり、時にくだらない話をしたり、家に帰ってから「あぁ!あの話を何でしなかったんだ」と頭を抱えたりwww
話し足りないことだらけでしたが、それはそれ。
一期一会、あの時間は僕たちだけのものです。
僕にとって非常にエキサイティングな時間でした。

遥さん、そして参加してくれた皆さん、どうもありがとうございます。



若者、そしてこれを読んでくれた大人のみなさんへ。

夢会を終えてから色々思うことがありました。
遥さんや、そこに集まったみんなの活動。

自分が若い頃(十代)、大人に一生懸命助けをお願いしたことがあっただろうか?

きっとありませんでした。
そもそもそんな発想自体がありませんでした。
三十代の僕だから分かります。

若者が誠心誠意お願いすると、大人は協力してくれる。

大人になった僕がそう思うから、きっと本当のことです。
案外、大人って頼られたいのかもしれません。


そして大人のみなさん。
若者を応援してください。
未来を作るのは若者です。
純粋な心で、学ぶことや大人との本当の意味での繋がりを求めています。

若者にはできないことがたくさんあります。
でも、若者だからこそできることもたくさんあります。

その可能性を共に応援することは先人の義務であると思います。
よりよい社会を、若者と大人で作っていきましょう。

《猟・蛸・羊》~犬に学ぶ器の大きさ~

犬に学ぶ「あたりまえ」の感覚。



犬ってかわいい。
書き物に集中していると、気が付けば膝の上に乗っている。
ソファの方が居心地いいんじゃないの?
って思うけど、わざわざやってきて、自分でどうにか座り位置を調整しながら眠ってる。
なんだか嬉しい。
時々邪魔だったり、重いから下におろしたりするけど、それは僕の都合で。
それを彼は黙って受けれる。


一つ一つの仕草。
自分に余裕のある時はそれを「かわいい」と思ったり、そうでない時は「やめてくれない?」と邪険にしたりする僕。
随分と身勝手なものだなぁと思う。
犬はずっと変わらずに僕に対して接してくれる。
冷たい態度をとられても、またいつもと同じように。


きっと僕の見た目がボロボロになっても、びっくりするくらいお金がなくなっても、変わらない態度で接してくれると思う。
そんな相手、なかなかいないでしょ。
だから、僕も犬や家族に対してはそうでありたい、と思う。
でも、これがなかなか難しい。
自分の都合で態度を変えてしまう。
とても未熟。


犬に学ぶことは多い。
言葉は喋れなくても、ちゃんと喜んだり、怒ったり、悲しんだりしていて。
感情を現したり、時に嫉妬したり、不安をこじらせて変な行動したり。
僕たちと同じで不完全な生き物なのに、家族にはいつもフラットに接してくれる。
僕よりも器が大きいなって思う。


そしてそのことを自慢したりしない。
きっとそれが「普通」だって思っているから。
犬の世界ではあたりまえなこと。
人間は道具を使ったり、空を飛んだりするようになったけど、犬のあたりまえをいつからかできなくなってしまった。
いや、最初からできなかったのかもしれない。


変わることはとても刺激的だが、変わらないことは誠実でとても難しいことだと思う。
色々な世界を眺め旅する鳥と、彼らが羽を休めるために根を張りずっと同じ場所で在り続ける木々。
どちらも大切。
でも人間性の本質的な部分は後者でありたいと思う。

《猟・蛸・羊》~自分だけのものではない~

僕のものは誰かのものでもある、ということ。



家の隣で建物の解体工事が行われる。
それが決まった数日後、二階の寝室にアリが出た。

「なぜこんなところに?」
プチっとやっつけてそれでおしまいだったが、次の日も出てきた。
「どこからやってきたのだろう?」
解体工事がはじまるに従って頻繁にアリを見かけるようになる。
外で見る分には何でもないが、家の中でアリを見るのは気分が良いものではない。
ましてや寝室である。
背中がゾゾゾとくすぐったい。


アリはどこから来たのか?
そして一体何が目的なのか?


解体工事がはじまる前日。
目が覚めて僕は言葉を失った。
ベッドの下にアリの行列を発見した。
只事ではないと思った僕は、そのアリたちをただちに潰していった。
パニックになり逃げ回るアリたち。
一匹一匹、取りこぼさないように息の根を止める。
アリの列を辿ると、どうやら畳の隙間から上がってきていたらしい。
何匹かは逃がしたが、とりあえずなんとかアリを退治できた。

薬局に行ってアリ用の駆除剤を買わなければならない、と思った。
そして潰れたアリをティッシュにくるみながら、言い知れぬ恐怖を味わった。
部屋をアリに占領される、という。
寝室に甘いものがあるわけでもない。
その前に食べ物すら置いていない。

「なぜだ?」

理由の分からない問題は心を不安にさせる。
霧の中だと自由に動けないように。



そして次の日、建物の解体工事がはじまった。
朝から、轟音を立てながら鋼鉄のショベルが建物を破壊する。
その度に僕の家は揺れる。
これは恐怖だ。
妻が不眠症に陥った。
アリの駆除どころの話ではない。
買ったばかりの薬剤は封を開けられないまま、ぽつねんと静かに影の中に置かれていた。



その解体工事はいまだに続いている。
物を破壊する時の音というのは気分を悪くさせる。
妻も僕もひどく疲れた。
何があった、というわけではないが、身近で行われる「破壊」に神経がすり減らされた。


そして、ふと気付いた。
あの行列を蹴散らした日から、寝室でアリを見かけていない、ということに。

「今思うと」なのだが、アリは自分の住処を失う(工事で破壊される)ことを知って、僕の家に逃げてきたのではないか?という考えが浮かび上がった。

そう思うと、かわいそうなことをしてしまった。
その場の感情だけで恐怖と怒りをぶつけてしまったのだから。

その場所は人が住む前に、アリの住む場所でもあったのだ。
人は工事のお知らせで近隣の住宅に挨拶して回るが、アリには挨拶などない。


事前に挨拶まで受けて、しかも「自分の家」が壊されるわけでもないのに、騒音で苛立っている自分。
何の知らせもなく、大きな機械に急に家を破壊されるアリ。
アリはきっと、僕の家に逃げてきた。
僕は何も知らずそのアリたちを襲った。
アリは、突然の敵の襲来に再び逃げた。


あれから一度として家の中でアリの姿を見ない。
おそらくアリにとって「この場所」もまた危険だということを察知したのだろう。
昆虫や動物は僕らに分からない鋭い感覚を持っている。
解体工事がはじまる前から「逃げなければならない」ことが分かっている。
僕という「敵」がいる、ということも分かっている。
僕たちが思うよりもずっと、いや、僕たちよりもずっと頭が良いのかもしれない。


僕たちはここから何を学ぶか。
生活というのは人と人の繋がりだけではない。
昆虫や草木、あらゆる生き物との共存の中で暮らしは成り立っている。
もっと相手のことを考えねばならない。
僕たちは決して一人で生きているのではない。


アリの駆除剤は未だ、封を開けないまま、倉庫に眠っている。

《本日の猟・蛸・羊》~食べれる話~

一生懸命やれば「食べれる」。



今日からはじまりました《本日の猟・蛸・羊》


ん?「猟」、「タコ」、「ヒツジ」?


何かの呪文?
なぞなぞ?
え?一体何?



ってな感じでしょう。
引っ張ったところで無駄にハードルが上がるだけなので、USJはジュラシックパーク最後の関門の如く激流の速度で回答に向かいますが。
特に意味はございません。


猟・蛸・羊→りょう・タコ・ラム(羊)に変換
続けて読めば→リョウタコラム


リョウタ・コラム!


ズバッと決まったところで進んで参りたいと思います。



日々、コラムのようなものを書いてきました。
コラムというのは短めの評論のことです)
単なる私の日課ですが、しばしば喜んで頂けたり、嬉しいお言葉を頂いたりすることがあります。
せっかくなのでカチッと枠組みを作り、紹介させて頂ければ、と思った次第でございます。


いつものように気張らずに、ネジにもある程度のゆとりがありますよう、遊びのある文章でお届けしたいと思います。





********************





一生懸命やれば「食べれる」の話。

周りの人を観察したり、自分で店をやったり、文章を書いたりしていて思うこと。
どんな世界(業界)でも、一生懸命やってたら「食べれない」ことはありません。

「売れる」かは分からないけど、最低限「食べて、寝る場所を確保する」ことはできます。
少なくとも日本という国の中では。

「食べれない」のは一生懸命が足りないだけだと思うのですね。
一生懸命仕事して、一生懸命コミュニケーションとって、関わる人にとって自分が「良い人」(人間性)でいることができれば、財産を築けるかは分かりませんが、最低でも「食べていける」
つまり生活を選ばなければ、ある程度やっていけるのですよ。
コミュニティ(業界)の中に入ってしまえば。


「食べれない」のは一生懸命やっていないか、単に「嫌な奴」だから。
「良い人」というだけで、ちょっとした仕事は回してもらえるし、対価がお金じゃなくとも「ごはん(食材)」をもらえたりします。
一生懸命やっている人って味方が多いですからね。
みんな応援してくれる。
あと、「良い人」の場合も。
実際に僕の知人も特化したスキルを持ち合わせていのに、「良い人」というだけで仕事をもらったり、食材や日用品をプレゼントされたりしています。
平成のわらしべ長者と言いますか。←この表現がすでに昭和


だから人に親切であることって、とても大切な要素だと思うのです。
チャンスは自分で掴みに行くよりも、誰かが回してくれることの方が圧倒的に多いですから。
唯一無二のテクニックを手に入れることにだけ力を注ぐよりも、「あの人に頼もう」って思われる人であることを磨くことの方が色々早い気がします。


スキルの高い人でも「嫌な奴」だと敬遠されますからね。
「嫌な奴」でも仕事が回ってくるのは超一流の人だけ。
でも諸行無常ですからね。
やっぱり「良い人」じゃないと長くは残りません。
「実るほど頭が下がる稲穂かな」という言葉があるように、一流の人は人間性もすばらしいことが多いです。
取材やラジオのゲスト、それにお店に足を運んでくださった様々な方を見れば強くそう感じます。


それに私が今まで出会った「尊敬する人」は皆、驚くほど一生懸命です。
仕事がうまくいくのが頷けるのですね。
そういう人たちって、最初は技術も未熟だったのでしょうけど、チャンスの巡る回数を人よりも増やして現場の空気で特訓してきたというのが肌感覚として伝わるのです。


そういう人は強いです。
「叩き上げ」感が伝わります。
特に、非常事態に強い
その辺りの臨機応変な対応っていうのは数をこなさないと身につかないですからね。


一生懸命で、人に親切であれば、チャンスは巡ってきます(食材も)。
その時はチャンスをものにできなくても、そのスタンスで継続していればチャンスとの出会いは確実に増えます。

一生懸命仕事に打ち込み、人に親切すること。

この二点をしっかりやれば、どんな好きなことをやっていても「食べれない」ことはありません。