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【評伝】中江藤樹

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作家であり、陽明学研究家の林田明大氏の著書。
昨年、林田先生の講演を傾聴したことがあり、陽明学中江藤樹に興味を抱きました。


講演の様子はこちらから
《学ぶ陽明学》


本書は中江藤樹の出生から持病の喘息によって迎えた最期までを順序立てて記しています。
著者は日本陽明学だけでなく、西洋の思想(R・シュタイナーなど)などにも精通しており、独自の見解と数々の参考文献や注釈を加え、著者の思考と歴史的事実を混成しながら懇切丁寧に展開させています。


中江藤樹を知らない、または戦国時代から江戸時代にかけての基礎知識を持たない人でも、安心して読むことができます。
日本の道徳心のルーツを学ぶため、そして新たに再認識するための書。
まさに良知からくる著者の心配りでしょう。


時に西洋思想と比較し、または現代社会と比較しながら日本陽明学というものをつまびらかにする点は、読者の受け取り方に多様性を与える他、理解をより深めることの助力となっています。
そして藤樹の死後、その思想はどのように伝えられたのか。
また、その教えが文明と同化していく流れまで。



中江藤樹の思想は、江戸時代初期から体系化し、人々の心の無意識の中に根を張り、現在まで続いています。
義務教育の中で教科書の中でも大々的に取り上げられることのない藤樹。
日本人として、中江藤樹という人物を知らないということは惜しい事です。


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〈著者の林田明大氏〉


中江藤樹は日本人で初めて「聖人」と称された人物です。
明の時代、王陽明が唱えた陽明学を日本の神道と結びつけ日本陽明学としての礎を築いた功績があります。
誠実に学問と向き合い、熊山蕃山淵岡山などの弟子を輩出しました。


主に陽明学における良知(人が生まれながらにもっている、善悪を誤らない正しい知恵のこと)と純粋に向き合い、心の在りどころに重点を置きました。

無心の信。

作為のない真の信心。
つまり、無意識にまで落とし込んだ善行こそが理想的であると教えました。
村の人々は藤樹の講話を通して人間力を養っていったのです。


最も印象に残ったのは『馬方の話』。
加賀の飛脚が京都へ向かう途中、二百両という大金を落としてしまいました。
すると馬方の男が財布を宿まで届けてくれました。
飛脚は驚いて、感謝します。
金を失くせば、自分だけでなく親兄弟の命もありません。
お礼に15両のお金を受けっとてほしいと馬方に渡そうとすると、「当たり前のことをしただけです」と頑なに受け取りません。
10両、5両、3両と減らしても首を横に降る馬方。
飛脚のあまりの懇願に「そこまでおっしゃるならば、手間賃として200文(1両=4000文)だけいただきます」と。
ようやく受け取ったその200文を馬方は、酒を買い、その宿に居合わせ者たちに振る舞いました。
「この馬方、只者ではない」
そう思った飛脚が馬方に名前を尋ねると、「名乗るような者でもございません」と答え、自分の住む村の近くに中江藤樹という人がいて毎晩のように講話をしていることを伝えました。


学問の道を進んではいない村人にも分かる言葉で道徳を説く藤樹。
この物語から中江藤樹の人間の大きさと、そのおおらかさが伝わります。
熊山蕃山はこの話を偶然宿で聞き、藤樹の元へ弟子入りしたそうです。


人間の心は清いものであると信頼し、誠実に向き合う姿勢で周りの者を感化させた藤樹。
日本人の道徳心の根っこは、この教えにあるのかもしれません。


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プチ哲学

NHK教育テレビの『ピタゴラスイッチ』を手がけた佐藤雅彦さんの著書。
最近「考えること」について考えることが多い。
世の中の正解云々ではなく、自分の中で腑に落ちる答えを探すこと。


この本はそんな脳みそのストレッチには最適。
可愛らしい絵と文の後にテーマとなる文章が顔を出す。
先に絵があるので、自然と頭が考え出す。
ページをめくるとそこではじめて、何について書かれていたのかに気付かされる、ということ。


考えることにも手順があり、よりナチュラルにイメージに入っていけるこの展開には感激。
誰もが分かる言葉で、誰もが分かる例え話で、誰もが「あ!」と気付く発見を。
考える練習。


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独学の技法

教養を血肉化し、知的戦闘力を高めるための本。
インプットとして本を読んでいるだけではただ知識を増やしているに過ぎない。
それらの知識をより実践的にアウトプットするためには、「知識」を生きた知恵に変換する必要がある。
著者の山口周氏はそれを抽象化、または構造化と呼んでいる。
内在するエッセンスを抽出し、別の分野に適応可能な状態にすることだ。
「覚えること」を目指さない学習方法である。
これだけ情報過多になり、また各分野では秒速でイノベーションが起きている。
覚えることよりも構造を抜き取り、新たな場面で適応させることの方が重要だと語る。
むしろ必要のない情報は記憶から消去することさえ勧めている。
記憶力より、適応する力が求められているのだ。


イノベーションはその分野の素人や若者から起こることが多い。
また、新たな発想は組み合わせの中で生まれる。
何かと何かの組み合わせ、例えばジョブズの率いるアップル社はデザインとテクノロジーの交差点でオリジナルな形態を生み出した。
このクロスオーバーは垣根を越えた分野の行き来にヒントがある。
各分野の専門家(スペシャリスト)はその専門性が高まるにつれて、狭く深く物事を捉えるようになる。
矛盾するようだが、極めようと思えば思うほど新たな発想、またその展開のチャンスは失われる。
そこで求められるのが教養である。
教養は分野と分野の架け橋のような役割を果たす。
共通項を導き出す力が教養にはある。
それは端的に歴史からの引用や、メタファーによる力。
それ以外にも他ジャンルを受け入れる器の大きさが粘着性を持ち、クロスオーバーをアシストする。


これはインタビュアーとして記事を書く際も同様のことが言える。
語り手の言葉を聴き手が読者のために翻訳することに近い。
言わば理解できる状態に組み立て直す力である。


より良い意思決定には相当の情報量が必要となる。
また、優秀な研究者が生涯書いた論文の数は彼が今までに引用されてきた論文の数と比例する、という量が質を転化する問題にも触れている。
圧倒的な量を生み出すためにはやはり相応のインプットが必要となる。
そのためにはやはり、より良い独学の技法を習得することがオススメである。



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君たちはどう生きるか

この物語は吉野源三郎の原作で1937年に出版された。
今も多くの人に読み継がれる歴史的名著を羽賀翔一氏が漫画として書き下ろした作品。


コペルというあだ名の中学生とその叔父さんの物語。
叔父との対話、手紙のやりとりの中でコペル君の心は逞しく育まれていく。それは読む者の心へも共鳴し、瑞々しい感覚で再び世界を見つめ直すことになる。
つまりは感動による力。
この一冊の本と出会い、心の奥けら湧き出る歓喜を全身で味わった。
僕に子どもがいたとすれば、きっとこの本を送るだろう。
タイムマシンがあったなら中学生の自分にも贈りたい。
また、20歳の日への自分へも贈りたい。
感受性の多感な頃にこの本を読むと、どのような反応が起こるのか。
それが楽しみで仕方ない。


内容は他愛のないコペル君の学校での出来事、友人関係、そこでの気付きや疑問、葛藤する思春期。
コペルとは地動説を謳ったコペルニクスからの由来。
叔父が名付けた。
コペルという名前からも分かるように物理的な思考、分子の不思議という理科的エッセンスが散りばめられている。
世の中の光景を物理というファインダー越しに眺めるコペル君。
その未知なる可能性、魅力に胸を踊らせる。
しかし、そんな彼にも年相応の悩みが訪れる。
サイエンスと情緒がそこでクラッシュする。
答えのない問題の中でコペル君は足掻く。
それは大人の僕が見ていてもあまりに難問で。
心や頭では分かっていても、行動に起こすことができない逆説に苦しむ。
乗り越えるのは何の力か。
そして苦しみさえも、その先の人生という物語において重要な養分であることを学んでいく。


コペル君の葛藤に勇気付けられるのは、子どもだけではない。
助言を与える叔父さんもまた、そしてこの本の読者もまた魂の震えを覚える。
サイエンスは情緒と繋がっている。
それはあの天才数学者、岡潔の信念のように。


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世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?〜経営における「アート」と「サイエンス」〜

今や半死半生語と化した「教養」について見つめなおすための心強い一冊。
「教養」は学問や芸術を通して人間性と知性を研鑽するものであったはず。


それが経済成長の波の中で、物質主義に染められ、いつしか「教養」は古臭い(時代おくれの)言葉に変わったような気がします。
言葉遣いや立ち居振る舞い、挨拶の文化。
手紙一つとってみても、教養を大切にしてきた時代と比べれば美しさが軽視されていることは明らかではないでしょうか?


「丁寧」や「美しさ」よりも「儲けたもの勝ち」といった感覚。
「きれい」よりも「早い」「安い」などの効率性を重きにおく思考の変化。
時代を急進させた力のある方々(その時代の最先端の業界)の印象は、実際にどうかということはさておき、押し並べて「美」よりも「進歩」を重要視した印象があります。


いつの時代もスクラップ&ビルド。
「破壊」と「再生」を繰り返すのが世の常ですが、その「破壊」に美しさを感じ得なかった。
そして美しさよりも欲望(野望と言った方が良いのでしょうか)を満たすことにエネルギーを注いだ。
また、欲望の満たし方に「美」を取り入れなかった。
このような背景から、「教養」を野暮ったいものとして認知されるようになったのではないかと思います。
本書の内容に関係なく、あくまで持論です。


そしてようやく本書の登場なのですが、この教養化石時代を憂う者に「よくぞ言ってくれた!」と言わしめる一冊です。
また、彼らの慰みの役割になるだけでなく、その論理的な指摘から、教養に見向きもしなかった者へも「美」の重要性を語りかける力強さがあります(どちらかというとそちらの方が大きい)。


また、「アート=感性」「サイエンス=論理」という構造から、その両方を対比させつつお互いの重要性を説明しています。
昨今のビジネスシーンにおいてサイエンスが重視されてきたのは、意思決定を行う際に誰に対しても説明しやすいから。
確かにアートは論理も時間も空間も超えています。
でも、スティーブ・ジョブズがカリグラフィーを学んだよう、信長や秀吉が千利休を重宝したよう、棋士の羽生善治が美しい一手を見極めるよう、美にはサイエンスを超えたパワフルな力があるのです。
時代の流れが急速な現代、サイエンスのみのシステムに限界が訪れようとしています。
ルールは毎日のように更新されていく。
そこにアート的な感性を、芸術家だけでなくビジネスパーソンにも備えておく必要があるのではないか、というのが著者の考えです(多分)。
だからグローバル企業の幹部はこぞってギャラリーに足を運び、キュレーターの話に耳を傾ける。
つまり、審美眼の磨いているのです。


著者は「サイエンスだけでなく、アートも」また、同じく「アートだけでなくサイエンスも重要」だと語ります。
決してどちらか一方なのではなく、その両方のバランスが組織にとって有効に働くのだと。


アートとサイエンスはどこかで繋がっています。
アートから飛び出した答えは、サイエンスによって答え合わせすることができる。
論理を飛び越えたアートの力。
それは、これからの時代を生きる私たちにとって必要なものなのではないでしょうか?
また、(持論ですが)日本人の曖昧さの中に美を見出す感性、これはとても有利に働くと思います。
おぼろげ、もののあわれ、はっきりしない、つまり説明要らずで良しとしてきた私たち日本人。
欧米の明確さを求める美的感性、または一神教の宗教的文化よりも八百万の神を敬う精神。
あえて意味づけはしないという持って生まれた懐の深さといいましょうか。
それが案外、美を育む上で豊かな土壌になるような気がします。

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